Masuk「ママ………」九条の家に着き、車が止まるのももどかしいほどの勢いで飛び降りた心春は、広大な屋敷の中を走り回っていた。使用人たちは突然現れた心春の様子に驚いたが、その涙に濡れた顔を見ると、誰も呼び止めることはできなかった。「ママはどこ?」息を切らしながら尋ねると、使用人の一人が慌てて答える。「お庭でお花を摘んでおられます」その言葉を聞くなり、心春は庭へ向かって駆け出した。広大な庭園には色とりどりの花々が咲いている。その一角で、綾乃は使用人と一緒に花を摘んでいた。両手いっぱいに花を抱え、穏やかな表情で微笑んでいる。その姿を見つけた瞬間、心春の胸に張り詰めていたものが一気に崩れた。「ママ………」掠れた声で呼ぶ。綾乃が振り返った。そして娘の顔を見た瞬間、その異変に気付く。だが何かを聞くより早く、心春は綾乃の胸に飛び込んでいった。驚いた綾乃は、今摘んできたばかりの花を投げ出し、心春の体を受け止めた。抱きしめた娘の肩が小刻みに震えている。心春は綾乃の胸に顔をうずめて泣きじゃくっている。まるで幼い頃に戻ったかのようだった。迷子になった時。転んで怪我をした時。怖い夢を見た時。いつもこうして綾乃の胸に飛び込んできた。綾乃は何も聞かず、心春の背中を撫でていた。優しく。何度も。娘が落ち着くまで待つように。心春もその温もりに包まれているうちに、少しずつ呼吸が整っていった。ようやく心春が落ち着いてくると、心春の肩を抱いてリビングへ連れて行った。屋敷の中へ入る間も、綾乃は何も聞かなかった。娘が自分から話すまで待つつもりなのだろう。その優しさが今の心春にはありがたかった。リビングへ入ると、綾乃は心春をソファに座らせ自分も隣に腰を下ろした。すると心春は綾乃にピッタリと体をくっつけて離れない。腕にしがみつくように寄り添っている。綾乃は小さいころからの心春のクセを思い出して、クスッと微笑んだ。心春は子供のころから、何か不安なことがあると綾乃の体にくっついて離れなかった。玲司には甘えない。叶翔にも甘えない。けれど綾乃にはいつもこうだった。綾乃は微笑みながら心春の肩を抱くと、心春が落ち着くまで黙って髪を撫でていた。柔らかく指を通しながら、何も言わずに寄り添う。心春も母の胸に抱かれていると、少しずつ落ち着いてきた。涙も
和真が家の玄関に着いたとき、使用人が迎えに出てきた。夕暮れはすでに過ぎ、外は薄暗くなり始めている。真っ赤なロードスターを車寄せに停めた和真は、エンジンを切ると軽く肩を回した。今日は思った以上に仕事が長引いていた。本来ならもっと早く帰宅するつもりだったのだ。なぜなら今夜は、心春が自ら腕を振るうと宣言していたからである。朝、嬉しそうにメニューの話をしていた心春の顔を思い出す。その様子があまりにも楽しそうだったため、和真も少し早く帰ろうと思っていた。結局予定通りにはいかなかったが、それでも手ぶらで帰る気にはなれなかった。和真の手には小さな箱があった。帰り道にわざわざ立ち寄って買ったものだ。心春の好物であるマロンのケーキだった。以前、一緒に食べた時に「このお店のマロンケーキが一番好き」と言っていたのを覚えていたのである。和真は玄関へ向かいながら自然と笑みを浮かべていた。今頃はキッチンで料理を作っているだろうか。少し疲れているかもしれない。そんなことを考えながら玄関へ入った。すると使用人がすぐに駆け寄ってくる。和真は手にしていた、心春の好きなマロンのケーキを使用人に渡して聞いた。「心春はキッチンかな?」当然のように返事を待った。だが――使用人はケーキを受け取った手を宙で止めて和真を見た。その表情はどこかおかしい。戸惑いと緊張が入り混じっている。和真は眉をひそめた。「お、奥様は……」使用人の声も歯切れが悪い。和真が不思議そうな顔で使用人を見る。何かあったのだろうか。使用人は、一度息を飲むと続けた。「夕方、奥様が、あなたが料理をして、と言い残して出かけられました。それから帰ってこられていません」和真の表情が変わる。心春が外出した?しかも料理をするはずだった本人が、料理を任せて出て行ったというのか。それは明らかにおかしい。今朝の心春は楽しそうだった。夕方になって突然予定を変えるような理由があったのだろうか。和真が聞く。「どこへ出かけたんだ?」使用人はもう一度息を飲むと言った。「運転手が言うには、九条家へ行かれたようです。その道中ですが……その……」和真は使用人を見た。嫌な予感がした。使用人が言葉を濁す時は、ろくな話ではない。「なに?」短く問い返す。使用人も覚悟を決めたように言う。「泣い
女性と子供が帰った後、心春は自室に戻って座り込んでいた。先ほどまで穏やかな時間が流れていた部屋が、今はまるで別世界のように感じられる。大きな窓から差し込む午後の日差しも、心春の心を温めることはできなかった。ソファにもベッドにも座る気になれず、心春はその場に力なく腰を下ろした。頭の中では、あの女性の言葉が何度も何度も繰り返されている。――この子、和真との子なんです。たった一言だった。しかし、その言葉は鋭い刃物のように心春の胸に突き刺さっていた。心春は膝を抱える。呼吸が少し苦しい。胸の奥が重く締め付けられるようだった。そんな時、不意に和真と結婚するときの父の言葉を思い出した。「あいつは昔、相当遊んでいた。結婚したといっても安心して暮らせなかったら、お前が悔やむことになる」玲司は滅多なことで娘のやることに口を出さない。それでもあの日だけは真剣な顔でそう言った。心春は当時、父が和真をあまり好きではないからそんなことを言うのだと思っていた。けれど今になって、その言葉の重みが胸にのしかかってくる。その時の父の顔を思い出し、心春は胸を突かれる思いだった。父は何かを知っていたのだろうか。それともただ娘を心配していただけなのだろうか。どちらなのかはわからない。だが今の心春には、その言葉が妙に現実味を帯びて聞こえてしまう。心春は先ほど放り出していったアルバムを手に取る。ページをめくる手はどこか頼りない。その中の家族写真に一緒に写ったあのパーティーの日の、若いころの和真を見た。写真の中の和真は今よりも若く、どこか危うい魅力を持っていた。背が高く、整った顔立ち。人目を引く存在感。どこにいても目立つような男だった。長身で容姿端麗。心春と知り合った頃にはすでに、いろいろな女性と浮名を流していたのだろう。そんなことは昔から知っていた。父も母も隠してはいなかった。和真が若い頃に女性関係が派手だったことなど、財界では有名な話だった。それでも心春は気にしなかった。過去は過去だと思っていたからだ。結婚してからの和真は優しかった。いつも自分を大切にしてくれた。だからこそ、あの女性の言葉を簡単に信じることもできない。しかし、完全に否定することもできなかった。ふと母と話した時のことを思い出した。まだ結婚する前だった。和真につ
心春はしばらく口もきけず、微動だにできなかった。どれくらいの時間が経ったのか。ふと気づき、女性の隣に座っている男の子を見た。確かに和真に似たところはある。だが……心春は深呼吸すると、女性に向き直って聞いた。「証拠はあるんですか?」女性もそう聞かれると心得ていたのだろう。半分に畳まれた書類を心春の方へ差し出した。恐る恐る受け取り、心春はその書類を開いて見た。「鑑定結果――99.9% 実父である可能性 高」その文字を見たとき、心春の心臓が今にも割れんばかりに高鳴った。思えば、和真ほどの男性なら、今までもたくさんの女性と交流があっただろう。そんなことは心春にもわかる。だが、子供までいたとなると、和真は知っていたのだろうか?自分が知らないだけで、この子供とも定期的にではないにしても、会って親子として過ごしていたのだろうか。しかもこの女性とも………。心春は大きく深呼吸をすると、女性を睨みつけるように見ると聞いた。「それで?あなたは今更何を期待してここへいらしたのですか?」その言葉を聞いた女性は、一瞬驚いたような顔をした。そして心春に向かって嘲るような笑いを口元に浮かべて言った。「さすが、財閥育ちだけあって隠し子くらいでは驚かないんですね。私はもっと騒がれるかと思ったんですけど……。私は、この子を正式に認めていただきたくてここへ来ました。この子を和真とあなたの籍に入れていただきたいの」女性の言いたいことは心春にも想像がついた。鷹宮財閥の当主もそろそろ交代の時期に来ている。和真と心春にはまだ子供がいない。ここでこんな伏線がでてきたら、正式に実子として籍にいれておけば、何年か後に和真が引退を考えたとき、後継問題にこの子も含まれて来るということになる。心春も財閥で育った身だ。先日も、叶翔と結婚した櫻羅も、DNA鑑定までして親子関係を証明したことも聞いている。まさか自分にもこんな問題が起こるとは思わなかったが……心春は背筋を伸ばすと、まっすぐに女性を見て言った。「まずはこちらでもあなたとそのお子さんの調査をします。和真にも話さなければなりませんし、今日はここでお帰りください」そして男の子に目を向けると、続けて言った。「あなたの身分がわかるものと、この子の名前を教えてください。後日、こちらからご連絡差し上げます」女性もそ
開け放たれたドアの向こうを見ると、父と母が心配そうな顔で叶翔を叱っていた。豪華なパーティー会場には相変わらず大勢の招待客が集まり、賑やかな話し声と音楽が響いている。しかし、その一角だけは空気が違った。玲司と綾乃の表情には明らかな焦りと安堵が入り混じっている。叶翔はしょんぼりと肩を落とし、二人の前で小さくなっていた。心春は和真にお礼を言うのも忘れて、父と母の元へ駆け出していた。「ママ!」泣きながら走る娘の姿を見つけた綾乃は、すぐにしゃがみ込んで両腕を広げた。次の瞬間、心春は勢いよく母の胸へ飛び込んでいた。父にはこっぴどく叱られ、母の腕に抱かれてまた泣いた。幼い心春にとって、迷子になった恐怖は想像以上に大きかった。見知らぬ廊下。見知らぬドア。どこへ行けばいいのかもわからない不安。張り詰めていた気持ちが、両親の顔を見た瞬間に一気に溢れ出したのだ。母の綾乃は心春の体をギュッと力を込めて抱きしめてくれた。「心配したのよ」震える声でそう言いながら、何度も娘の背中を撫でる。玲司もまた安堵していた。だが、父親として叱るべきことは叱らなければならない。「勝手にいなくなったら駄目だろう」厳しい声だった。しかしその目には娘を失うかもしれなかった恐怖が滲んでいる。やがて心春が落ち着いてくると、父の玲司が心春の頭を撫でながら、さきほどとは打って変わって優しい声で聞いた。「心春、どこへ行っていたんだ?」心春は玲司の顔を見ると言った。「エレベーターで知らない廊下にいたの。そしたら、かんざきかずまがここまで連れてきてくれた」その名前を聞いた玲司と綾乃は目を見開いて顔を見合わせた。一瞬だけ空気が止まる。神崎和真。その名前には二人にとって複雑な過去があった。だからこそ驚いたのである。心春が指さす方に、財界人たちと談笑する和真の姿を見つけると、玲司は大股で歩いて行った。背筋を伸ばし、真っ直ぐに歩いていく。周囲の財界人たちも玲司の姿に気付き、自然と道を開けた。綾乃と心春が見ていると、玲司が何かを言い手を差し出して和真と挨拶をしているのが見えた。和真も穏やかな表情で応じている。遠くて会話までは聞こえなかったが、少なくとも険悪な雰囲気ではなかった。綾乃はホッとして心春の顔を見た。「和真が助けてくれたの?」心春は得意げになって言う
鷹宮邸では、心春が使用人に買い物リストを渡して、今夜の料理のメニューについて説明していた。広々としたダイニングには柔らかな午後の日差しが差し込み、磨き上げられたテーブルが美しく輝いている。心春は何度もメニュー表に目を落としながら、細かな確認をしていた。「前菜はこれでお願い。魚料理は少し軽めにして、メインのお肉は和真さんが好きな焼き加減で」使用人は丁寧にメモを取りながら頷く。今夜は久しぶりに和真と、キャンドルディナーを夫婦二人だけで楽しもうと思っていた。最近はお互いに忙しく、ゆっくりと二人だけで食事をする機会が少なかった。だからこそ、今日は特別な夜にしたかった。祖父である正隆は、心春たちと食事の好みが合わず、「二人で楽しめ」と言い、自分は外食すると言っていた。その言葉を聞いた時、心春は少し申し訳なく思ったが、正隆は本当に気にしていない様子だった。むしろ孫娘夫婦の時間を作ろうとしてくれているのだろう。使用人を買い物に出すと、今夜のことを考えて思わず笑顔になった。二十五歳も上の和真と結婚して三年。世間は驚いた。親族の中にも反対する人はいた。周りはとやかく言っていたが、心春は幸せだった。和真はいつも優しく、決して心春を子供扱いしない。困った時は支えてくれる。けれど必要以上に干渉もしない。そんな距離感が心地よかった。ふと、心春は窓の外を眺めた。青空を見ているうちに、昔のことを思い出す。和真は、心春の母、綾乃の幼馴染だった。だが、玲司と綾乃が結婚前に何かあったらしく、心春はほとんど会ったことがなかった。それでも、一度だけ強く記憶に残っている出来事がある。まだ幼かった頃のことだった。ある日、両親に連れられて叶翔と一緒に行ったパーティーで、心春は迷子になっていた。財界人や政治家たちが集まる大規模なパーティー。会場となったホテルはまるで宮殿のように巨大だった。大きなホテルの会場から、退屈していた叶翔と心春は抜け出していた。子供だった二人にとって、大人たちの会話など面白くない。巨大なホテルは、叶翔と心春にとっては探検基地のようで、縦横無尽に走り回っていた。豪華なロビー。長い廊下。静かなラウンジ。見るもの全てが冒険の舞台だった。しかし、夢中になって走り回っているうちに、ふと気づくと叶翔の姿が見えず、心春はその場で立







